Skip to content

【僕らの島生活】僕らが島に惹かれる理由

8月 11, 2011

「僕らはなぜ島に惹かれるのだろうか?」。世界を探検しているような気分になりワクワクする、海があり、山がある変化のある風景が生理的に心地よい、文明から隔離された自然の豊かさ…そこには様々な理由がありますが、島というひとつの空間を外から眺めることができるということがそのひとつの理由かもしれません。
宇宙飛行士が地球を眺めるように、海の船上から島を眺める。その時に私たちは、自らが住む場所を客観的に外の視点から見つめることができます。「僕らの島生活」では、島に暮らす30代を訪ねることで自らを見つめ、都市と島、ボクナリ世代について考えていきます。(ボクナリ 美谷広海)


大学時代に訪れた新潟県佐渡島沖にて

■岩窟王の島から見えた「別世界」

4歳から7歳までフランスのマルセイユに住んでいたころ、旧港から船で20キロ程沖に浮かぶイフ島にいくのがとても楽しみでした。アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』の舞台となったこの島には、監獄として用いられた要塞が残っており、その城壁を喜々として歩き回ったものです。

より大きな感動を与えてくれたのは、今は無人島となったこの島からの帰りの船で見たマルセイユ市街の眺めです。自分が住んでいる町がまるで別世界のように見えたことを覚えています。その時から島という異世界に惹かれていったのかもしれません。

大学生の時には、テレビプロデューサーの教官が出したドキュメンタリー制作の課題で新潟県の佐渡島で能を演じる高校生を取材しました。仲間に都会の出身者が多くて地方の高校生に関心があったこと、さらに当時は高校生の援助交際や女子高生マーケティングがマスコミで話題となっていて、その反発もあり「普通の高校生を撮りたい」と考えた末のことでした。

■離島だからこそ残った独自性

佐渡には人口約8万人に対して33棟の能舞台が残っていました。かつては能舞台が200以上存在していたと言われています。島に残る文化的な香りと、おっとりした雰囲気が、今でも印象に残っています。

なぜ佐渡で能が盛んになったのか。それは室町時代に世阿弥が流され、能楽を伝えたからです。世阿弥、日蓮や順徳上皇など、都から佐渡に流された人々が伝えた文化は、周囲を海に囲まれ、周りの世界から一定の距離を保っていたからこそ残ったのではないでしょうか。


沖縄の慶良間諸島にて。

これまでにも多くの島を訪ねたこのような独自性が、画一的な大量消費から多様性が重視される時代の変化の中で魅力を増しています。より広い世界を実感するために必要なこと。それは日本から世界を見ることだけでなく、世界から日本を見ること。内から外を見るだけではなく、外から内を見てみることです。イフ島からマルセイユを見たように、外から島の世界を見つめてみる、島の中から外の世界を見つめてみることで、身近な世界の広さ、豊かさを再認識してみたいと思うようになりました。

■インターネットは島に何をもたらすのか

インターネットの登場によって世界中の情報を見ることができるようになりました。大学時代にインターネットに触れ、キャンパスに行かずに自宅から教授にレポートを提出したり、メッセンジャーでタイの学生とチャットしたりして、フラットな「つながり」を実感しました。

ネットの情報は圧倒的多数が都市から発信され、消費されていきますが、島でもインフラの整備により、情報発信ができるようになりつつあります。島での生活を発信しているブロガーも登場しています。同世代として共通する問題である仕事や、子育て、教育はどうなっているのか、都会にいる私たちでも知り、つながることが出来るようなりました。

独自の世界を保ちつつ、島はインターネットで世界につながろうとしているのです。

「海の憲法」と呼ばれる国連海洋法条約によると、島の定義は「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」とされています。要するに日本はすべて島ということになります。これでは東京も島の一部になってしまいます。

■訪ねるのは昔の風習とブロガーが共存する島

そこで訪ねるのは「離島」に絞り込むことにしました。離島と呼ばれるのは、北海道、本州、四国、九州の「本土」と沖縄本島を除く島で、さらに本土とされる島と橋などで繋がっていない6847の島と定められています。

そんな離島の中から三重県の答志島(とうしじま)を一番初めに訪れる島に決めました。30代が住んでいて、「寝屋子」と呼ばれる男性が共同生活をするという昔からの風習が今も残っていること、さらにブロガーが島の身近な情報を発信していることも分りました。

昔からの風習とブロガーが共存する島とはいったいどんなところなのでしょう。

【僕らの島生活】五島編(10)世界遺産になっても地元にメリットはあるのか

5月 27, 2009

蕨小中学校の運動会が行われている途中で、世界遺産候補に登録されている旧五輪教会まで歩いて行ってみることにしました。五島最古の木造教会は、禁教令が解かれた後も世間から身を隠すように久賀島という離島の中のさらに驚くほどの僻地に立っていました。狭く、急斜面の山を縫うようにして作られた道路を歩きながら、この教会が世界遺産に登録され、観光客が来たときのことを考えていました。(ボクナリ 美谷広海)


旧五輪教会運動会が行われている最中でしたが、久賀島にある五島市最古の木造教会である旧五輪教会も訪れてみたいと思い、途中で抜け出して行ってみることにしました。

蕨小中学校から5、6キロの道のりで、丸田さんや地元の人からは「結構距離があるよ」と言われましたが、せっかくなので歩いて行ってみることにしました。

峠を登って振り返ると運動会が行われている学校と周りの集落が奇麗に見渡せ、運動会の歓声が山の上まで聞こえてきます。

ひと山越えたとこに福見という集落があり、そこからは車では進めません。道路は続いているものの、Uターンができない狭い道になっています。そこを更に進んでいくと、アスファルトの道は消え、落ち葉を踏みしめながら山を下っていきます。全部で3つ山を越えたところにようやく旧五輪教会がありました。所要時間は1時間半。教会は小さな港の脇にあり、水上タクシーであればかなり楽にここまで来れたのにと少し歩いてきたことを後悔してしまいました。


木造のアーチが素晴らしい教会は一見すると木造の小屋にしか見えません。世界遺産候補と言われなければ、古い民家と思って通り過ぎてしまいそうですが、中に入ってみると、木造ながら見事な連続アーチ構造の屋根になっており、職人による力作に感動させられます。

もし、教会が世界遺産に登録されればどうなるのでしょうか。都会から来る観光客が、山道を歩くことはないでしょう。久賀島の港から車でも40分かかかるこの山道を利用するよりも、船を使えば福江島から30分で行くことが出来ます。そうなると地元にお金が落ちることはほとんどありません。

来た道を戻りながら、最後の峠を越えて学校を見下ろしながら坂道をくだっていくと、歓声は消えてひっそりとしていました。最後の運動会の最後の瞬間に立ち会えなかったのはちょっと残念でしたが、もしかしたらこれで良かったのかもしれません。この島や地域、学校に特別な感慨をもたない外からの人が、最後の運動会の最後を迎えるという感動の場面にはちょっと不相応だったのではないかと思ったのです。


学校をしのぶ「思いを語る会」集落に戻ると、みんなが「結構遠くまでよく歩いていったなぁ」と少し見直してくれたようです。

運動会の後に開かれた、学校をしのぶ会という名の地域の食事会にも参加することが出来ました。

大人はお酒、生徒はジュースで参加しています。体育館の中で、子供や大人がまじってソーラン節を披露する大宴会となり、全員で校歌が何度も斉唱されます。誰も口にしませんが、この運動会が特別な意味を持つのを強く意識しているのをひしひしと感じます。

ここに集まっている人たちを結びつけてきた存在がある日から突然途切れてしまうのを誰も想像できないのかもしれません。帰りは、夜中の水上タクシー乗り、海風で酔いを醒ましながら深く黒が沈んだ離島の夜空を眺めつつ福江島に戻りました。

【僕らの島生活】五島編(9)島の学校、最後の運動会

5月 26, 2009

「いつかこういう日がくるのはみんなわかっとったけど、やっぱ寂しいなぁー」。
創立1875年。明治維新から10年もたたずして始まった久賀島の蕨小中学校の長い歴史を締めくくる最後の運動会が行われました。最盛期は227人いた全校生徒は現在8名しかいないため、地域住民やOBが加わった賑やかなものだっただけに、終わった後の喪失感もあります。ずっとこの場所に住んできた人が、ひとつの歴史が終わるときに発した言葉は想像できない程の重みがありました。(ボクナリ 美谷広海)


最後の大運動会の様子を写真ギャラリーで(クリックすると運動会の写真がみられます)五島列島の中心である隣の福江島が4万人以上の人口なのに対し、久賀島の人口は約600人。島にある4つの小中学校のうち二つを兼ねる蕨小中学校が今年度で最後ということで取材することにしました。最後の晴れ舞台だけに、観客席には地区中の住人が集まってきます。

配られた大会プログラムに目を通してみると、この規模の運動会とは思えないくらい、しっかりと作り込まれています。生徒数が少ないためか、31種もの競技があり、A4の紙がびっしりと埋め尽くされていました。

生徒による種目ではなく、地域の大人や小学生とお年寄りによるチームという競技もありました。生徒は、自分の種目だけでなく、大人の競技のためのスタッフをしたり、司会をしたり、進行をしたりと休む間もなくめまぐるしく動いています。

集落の人たちは「子供が学校からいなくなったら、町の中から元気が消えてしまう」と廃校にずっと反対してきたそうですが、過疎が進み子供達が少なくなってしまいました。

早めに昼食を食べ、集落を歩いてみました。地域の人たちは運動会のため学校に集まっているため、まるでゴーストタウンのように静まり返っています。今までに訪れた離島の中でも、昔ながらの重厚な木造の家が多く残り、昔は豊かだったことが伺えます。


人気のない集落ひと気のない、集落を抜け、港の堤防を沖へと歩き、振り返って遠くから小中学校と集落を眺めると、離島に来たというのを強く実感します。この瞬間が一人旅の醍醐味かもしれません。

丸田さんに、「五島はいいですね」と話してみると、「じゃあ住むか?家は用意してやるから」と返されてしまい返事に窮してしまいました。
離島で感じるノスタルジーは、決してそこには住むことを考えない、住む覚悟を持たない都会人の我がままにしか過ぎないのかもしれません。
ボクナリの中で島を巡るときに考えていた「島に住んでいる人は日々なにを考えているのか?」「なぜその場所を去るのか、あるいは住み続けていられるのか?」という疑問が再び頭をよぎります。
島を去ること、島に残ることは、組織に置き換えることもできます。会社に見切りをつけ数年で転職をする人。会社に不満を持ちつつも組織に残り続けることを選ぶ人。組織を移れる人はいいけれど、残る人はそこでやり続けるしかない。

過疎化というのは改めて難しい問題だと考えさせられます。小さな頃から引っ越しが多く、移り住むのが当たり前であると思ってしまう私にとっては、住めば都でどこに住んでも人はやっていけるとも思ってしまうので、長く住み続ける人たちの気持ちは最終的には分からないでしょう。青く高い空の中で盛り上がる運動会からのぞく寂しさと居心地の悪さは、そんな断絶から来ていたのかもしれません。最後の晴れ舞台が幕を開けようとしていました。

【僕らの島生活】五島編(8)コミュニティへの参加儀礼

4月 29, 2009

久賀島へ向かうため待ち合わせ場所に行ったのはいいのですが、なかなか丸田さんの車があらわれません。どうやら夜に飲み過ぎてしまったようです。フェリーに遅れたため、水上タクシーを利用し、久賀島に到着すると「カンカンに怒っている」という片山さん家に謝りに向かいました。(ボクナリ 美谷広海)

水上タクシー堂崎天主堂近くの奥浦へと急ぎましたが、港が見えてきたときには久賀島へのフェリーは埠頭を離れようとしているところでした。そこで、やむなく水上タクシーを呼ぶことに。

タクシーと言っても、自動車のようにランプやメーターがあるわけではなく、小さな船の横に「水上タクシー」と書いてあるだけ。釣り船と見分けがつきません。

フェリーが発着する田ノ浦に到着し、島の北東にある蕨地区まで山道を島を斜めに縦断するように車で向かいます。途中、島の中央部の久賀地区の小学校の前に、島に一つしかないという信号機を通り過ぎました。

「信号なんて別にいらないんだけど、島の子供が外に出たときに(信号機の使い方が分からないと)困るからあるんだよ」と丸田さんが教えてくれました。

20分ほどかけ、ようやく目的地の蕨小中学校に到着しました。

蕨小中学校に到着した後、丸田さんに連れられ、謝るために近くの片山さん宅を訪問しました。

初めて片山さんにお会いすると、もう何も気にしていない様子。少し拍子抜けしていると「今から運動会の準備をしにいくから」と声をかけられ、手伝うことに。


氷をバケツに入れる片山さんら

軽トラの後ろに乗って港に向かい、停泊している漁船の中にある倉庫をあけ、中の氷をすくってポリパケツの中に入れ始めました。

このパケツで飲み物を冷やすために学校へ運ぶのです。

少しばかりこのバケツリレーを手伝ったことで、外部の人に一緒に何かをさせた、というコミュニティーの中に参加させる儀礼が済んだのかもしれません。

運動会が開かれる蕨小中学校の創立は1875年。最盛期には227人在籍していたそうですが、現在では小学生5名、中学生3名の計8名が学びます。

グラウンドは1周100メートルしかありませんが、小さな集落の中のコンクリートの二階建ての校舎は存在感があります。

134年めの最後の運動会。観客席には子供の両親はもちろん、街の住人の老人、この日のために戻ってきたOBの高校生が並び、最後の晴れ舞台が幕を開けようとしていました。

【僕らの島生活】五島編(7)島ならでは?濃厚なコミュニケーションにタジタジ

4月 28, 2009

「物価も高いし、仕事も少ない。島から出ようとするとお金がかかる。島の暮らしは都会の人が考えるような良い面ばかりじゃないよ」。単刀直入に話すのは、五島でウェブ制作の仕事をしている丸田敬章(39)さん。昔の中学、高校にいたような怖い先輩と話しているような感覚。別の予定があった夜も「こっちに飲みに来いといったじゃないか!」と電話がかかってきて…(ボクナリ 美谷広海)


丸田さんいいことは話さないと前置きした丸田さん。島を出るには、最低でも往復1万円。家族4人なら4万円。台風で輸送が止まれば物流が止まってしまう、と厳しい口調で生活の厳しさを言われると、部外者ならではの気楽さを見透かされているような気がしてきます。

話は延々の続き、お昼にもかかわらず、深夜の「飲みニュケーション」のような濃さにタジタジになりながら、用意された五島産のイサキに手を伸ばします。

白身なのに味が濃く、旨味が凝縮されている刺身は、隣の久賀島で漁業を営んでいるマルセイ水産の片山和彦さんのもので、ネットのショッピングサイトで上位にランクインする人気だそう。

「こんな美味しいものを食べれるのも旅の良いところ」とほっとしたのも束の間でした。

翌日久賀島に行くと話したとたん、丸田さんから「久賀島に行くんだったら片山さんにも挨拶していないかいとダメだよ」と忠告されます。「今から片山さんに電話しておく。うちに来てもらうからしばらく待っていて」と言われ、取材の予定があったのですが、その申し出を断るに断れません。


マルセイ水産の魚で作った刺身結局、その時にはお会いできず取材に行くことにすると、「また夜に連絡して。島に行く前に片山さんに挨拶をしておいて一緒に飲まなきゃダメだよ」とダメ押しされます。

郷に入れば郷に従え、島に行くにはきちんと地元の人に挨拶をしていけ、ということなのでしょう。よそから取材に来ている身としてはありがたいのですが、最近では濃密なコミュニケーションを経験していないため、煩わしくも感じてしまいます。

一緒に取材していた長崎在住の永野さんは夕方の最終便フェリーで長崎に帰る予定だったのですが、会わずには帰さないと言われ、「裏技があるよ。夜10時のフェリーにのって朝3時半に長崎に着く船がある。俺が電話すれば乗れるから」と解放してくれません。ちなみに、この船は一般の人は利用していない貨物船です。

夜に取材をしている間にも、「はよ飲みにこい」と催促の電話がかかってきます。丸田さんの家に着くと久賀島の「親分」はすでに帰ったとのこと。カンカンに怒っているそうで、「明日俺と一緒に早朝にあやまりにいこう」と言われてしまいました。丸田さんも蕨小中学校で行われる最後の運動会をビデオ取材するとのこと。翌日は朝イチの船で丸田家族と一緒に久賀島に行き、親分に謝りにいくことになりました。

【僕らの島生活】五島編(6)知り合いがいない島では運動するしかなかった

4月 27, 2009

生まれも育ちも熊本で、社会人になってから五島で起業をするという先輩と一緒に島にやってきた鍋島崇暢さん。島にきたはいいものの、親しい友人も出来ず、仕事の後にやることが見つからない毎日。今出来ること考えた末に出た結論が「運動しかないやろ!」。五島で行われているトライアスロンに連続出場したことで、島に溶け込むことが出来たのです。(ボクナリ 美谷広海)


鍋島さん(左)と樋口さん水泳の北島康介選手によく似た風貌の鍋島さん。

全日本ラリーに上位入賞するも、金銭的なハードルからラリー選手への挑戦をあきらめるという挫折を味わっていたときに頼りにしていた先輩が五島でビジネスを始めるときき、「あの人についていけば何かある」と思い切って島に渡ってきました。

ただ、最初の数年は周囲に知り合いもなく、「結構ブルーで、しょっちゅう熊本に帰っていた」そうで、ダイエットもかねて毎朝10キロ走ることにしたのです。三ヶ月で10キロやせ、島を2週するトライアスロンの大会があると聞き「俺もできるやろ」と思って参加したのです。

トライアスロンがきっかけとなり、島出身で造園業の三代目社長を務める樋口浩二さんと知り合い、島の人との交流が広がりました。

ともに30代半ば。昨年のトライアスロンの大会アイアンマン・ジャパンでは、鍋島さんが250位。樋口さんが260位。二人は常に競り合っていて同じくらいのレベルで勝ったり負けたりしている良きライバル同士なのだそう。

鍋島さんに五島に来ることを迷わなかったのか?と尋ねてみると、「人生あっという間。なんかしないとすぐ終わっちゃいそう。迷っても1、2年だし、決断は早いほうがいいと思っていました」とのこと。考えるよりも行動してしまうことで人生を切り開くタイプなのかもしれません。

二人を結びつけたトライアスロン大会も、決して順風満帆ではないようです。島興しの意味もあり始まった大会ですが、鍋島さんの「トライアスロンでみんながいつか行きたいといのが宮古島。五島ではないんですよ。宮古島は倍近い人が参加しているし、地元の選手も100名近くが宮古島ではでているんです」という言葉からは、もっと地元の人が参加して欲しいという気持ちがにじみ出ていました。

「雇用の問題を考えると地方は厳しい。給与が低いから土日も働く。共働きも多いから子供の環境も都会と一緒で悪くなっているんです。でも、この島に恩返しをしたいんです」。二人のアイアンマンは、そう力強く語ってくれました。二人の出会いを生み出したように、トライアスロンの輪が広がっていくと盛り上がるのかもしれません。

【僕らの島生活】五島編(5)転覆隊と出会って人生が「脱線」した

4月 26, 2009

とことん楽しみ、遊んで、仕事にもする。広告代理店の社員が作るシーカヤックサークル・サラリーマン「転覆隊」に出会ったことで、本業は老人ホームの経営にもかかわらず、アウトドアインストラクターをすることになったカドジュンこと門原淳一さん。人生の「脱線」は些細なことでした。(ボクナリ 美谷広海)


門原さん 「彼らは、とことん楽しんでいた。さらに、身銭を切って遊ぶだけじゃなくて、それを雑誌の記事にして仕事にもするたくましさがあり、刺激を受けました」

門原さんの本業は老人ホームの経営。大学生のときにカヌーをした経験をがあり、バイクでオーストラリア半周したこともある、活動派でしたが、島に帰ってからは仕事が忙しく「アウトドア氷河期」だったそうですが、29歳のとき転覆隊がやってきます。

転覆隊は、カヌーの魅力に取り付かれたサラリーマンが仕事の合間に全国の川で活動するサークル。アウトドア雑誌での連載でも知られ、「サラリーマン転覆隊が行く」という本やDVDまで出しています。

2000年10月、その転覆隊と衝撃的な出会いをし、福江島の玉之浦湾で一緒にカヌーをこいだ門原さんは、五島アウトドアネットワーク(GON)というチームを仲間と結成。翌年には転覆隊の五島列島出張所に任命されます。

GONのHPを立ち上げると、趣味が合う人たちが自然と集まり、三年ほど前からは、アウトドアツアーガイドを定期的に依頼されるようになったそうです。また、全日空の機内誌「翼の王国」で紹介されたことでさらに仕事の輪が広がりました。

いつしか自然と遊ぶことが、仕事に変わっていった門原さんですが、五島に住む人でも海で泳がない人など豊かな自然を楽しんでいる人は少ないと言います。

「五島の人は遊ぶのが下手というのを転覆隊の人たちが海や山も川も精一杯楽しんで遊ぶのを見ていて気づかされました」

29歳になる前はバスケを子供に教えていたくらいで、それ以外は仕事だった門原さん。転覆隊と出会い、各地に仲間が出来ただけでなく、地域で同世代の繋がりも増えたそう。
五島列島全部で140ある島を遊び倒すのがカドジュンさんの目標。「足掛け6年でシーカヤックで行ってきた福江島1週ツアーはあと30キロ」と遊びにはまだまだ続きがあるようです。

フォロー

新しい投稿をメールで受信しましょう。