【僕らの島生活】五島編(1)「列島」という響きに惹かれて
「列島」と聞くと何を想い浮かべますか?まず、日本列島。そしてその次は…筆者の中で、それは五島列島でした。トカラ列島、甑島(こしきじま)列島などもありますが、日本には列島という呼称で呼ばれている島々は少ないのではないかと思います。列島という響きに惹かれ「いつか五島」に行ってみたいという思いが日々強くなっていました。(ボクナリ 美谷広海)
五島列島は、南側から福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の五つの大きな島を中心に、約140の島から構成されています。玄関口となるのは長崎、佐世保からの航路がある福江島、奈留島、中通島です。そして若松島は中通島と繋がっています。これらの島を経由するにせよ、最終的には九州とは直接のアクセスがない島に行ってみたいということで残ったのが久賀島でした。
久賀島について調べていくと、蕨小中学校という今年度で閉校となる学校があり、五島列島に訪れようとしていた時期に、最後となる運動会が開催されることがわかりました。この好機を逃す手はありません。最終目的地は久賀島と決まり、途中で経由する福江島も取材することにしました。
Wikipediaによると『「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶ』と書かれていました。確かに島を訪れてみると、地元の人は五島としか言っていませんでした。これは日本列島という呼び方は会話の中であまりせず単に「日本」と呼ぶのと同じ感覚かも。紀行もののテレビ番組の中で紹介される「五島列島」という呼び方しか耳にしたことがない私にとっては、少し意外でした。
余談ですが、五島列島は「ごとうれっとう」と呼びます。ですが私の妻は最初「ごとう」とは呼べず「ごしま」と呼んでいました。島の人に聞いてみてもわかったのですが、「ごとう」と呼ぶと知らず「ごしま」だと思っている人も多いのだそうです。そんな五島の福江島、久賀島に向けて旅だったのは、秋本番となった10月でした。
![]() 五島列島<浜口水産> あらびき鰯つみれ |
【僕らの島生活】喜界島編(7)隠れた名所「地下ダム」に潜入
喜界島は珊瑚礁が隆起して出来たため、島に降った雨水は地下水にならず、ほとんどが海に流失していまいます。そこで、岩盤層まで、地下に巨大なダム壁をつくり地中に巨大な貯水プールをつくるというプロジェクトがこの島で進められました。200億円を超える事業費をかけて完成した地下ダムは、島外からの視察が年間2000人という隠れた名所になっているのです。(ボクナリ 美谷広海)
地下ダムの管理センター役場電算係の福島さんから紹介してもらい、島の中腹にある地下ダムの管理センターに向かいます。
年間降水量2000ミリを超えるものの、大きな川もなく、農業用の水の確保には苦労してきた地域です。水を通しやすい石灰石の下には、「島尻層群」と呼ばれている水を通さない泥・砂岩の地層があるため、石灰石の層に壁を作ることで水を貯め、海水の浸入を防ぎ、自然のダムとして利用するという方法が考案されました。
水は総延長45キロのパイプラインによってサトウキビ畑などへ送られます。
この地下ダムは、喜界島だけでなく、宮古島などさんご礁の島々でも作られていますが、もちろん地下にあるため普通のダムのように見ることが出来ません。喜界島では、地中の壁=止水壁の一部がトンネルとなっているために見学できるのです。
上映されるダムの説明ビデオ地下ダムの管理センターで説明ビデオを見た後、地下ダムの一部である、トンネルへと降りていきます。
地下16メートルの深さに存在する長さ366メートルのトンネル。長い螺旋階段を降りていくと、こつ然とそのトンネルはありました。
360度コンクリートが剥き出しの不思議な空間。まっすぐとしたU字状のコンクリート外壁がはるか遠くまで続いています。音の聴こえない静かな世界です。
このトンネルは車が通るわけでもなく、何かを貯蔵するためでもないトンネルです。トンネルといえば、ある地点と地点を結ぶために作られるものがほとんどでしょうが、このトンネルは移動するためには使われていません。なぜ、そんなトンネルが存在するのか?
地下ダム内のトンネル実はオオゴマ蝶の生息地を保護するためなのです。
ダムの工事地域がオオゴマ蝶が生息する防風林になっていたため、それを破壊することなく地下に防水壁をつくるためトンネル工法が選ばれました。
通常、地下ダムは、地面を掘り、止水壁を作り、埋め戻すという作業で作られますが、ここでは生息地から離れたところから地下トンネルを建造、この地下トンネル内からさらに地面を掘りさげコンクリートの止水壁がつくられたのです。
トンネルは工事用の作業場として利用され、いまはトンネルそのものも止水壁の上端の一部となっています。
トンネルの中程に二つ丸い窓が設置されていました。この窓からは地下ダムに貯まっている地下水を見ることができます。窓の下には蛇口があり、それをひねると勢いよく水が出てきました。海中にいるような不思議な感覚でした。
ひんやりとした地下から16メートルの高さの螺旋階段を登り地上の世界へと戻りました。すぐそばにある島の食品センターの加工センターに行くと、受け付けにさされた木の枝には黄金色に輝くオオゴマダラのサナギがついていました。
あまりにも見事な金色だったため最初は模型だと思っていたのですが、目を近づけてみるとサナギからでかかっている蝶がゆっくりと動いています。
「オヤッ」と思いもう一度その蝶を見返してみます。偶然その瞬間、サナギから孵化して羽をとりだす蝶の姿をこの目にすることができたのです。サナギの期間は夏期で七日間ほど。それは時間をかけて羽を乾かし抜け殻から離れようとする途中でした。思わぬ幸運に夢中でシャッターをきりました。
地下の巨大なダムによって地上に残された蝶の楽園。そんな二つの異なった世界を短い時間で体験した不思議な数時間でした。自然と共存せざるをえない農業への取組みが蝶の聖地としての喜界島を今に残しているのかもしれません。
![]() 原料は、農薬化学肥料不使用にて契約栽培した鹿児島県・喜界島産の在来種の白ごま(島ごま)のみ… |
【僕らの島生活】喜界島編(6)役場は地域の情報ハブ
島の情報を得るなら、まず役場へ。東京などの都会では想像できませんが、地方都市にいけば役場は地域の情報ハブとして重要な役割を果たしています。そこで、喜界の情報をホームページで発信している企画課電算係である福島さん(30)を訪ねました。システムやネットワークの管理をしていると、時には庁内の「コピー機の調子を見てくれ」から、町の人々からの「パソコンがネットに接続できない」といった相談が寄せられ、「島の何でも屋ですねー」と苦笑い。(ボクナリ 美谷広海)
福島さん喜界町役場は、近代的な建物。今まで訪ねてきた島でなかったような立派な建物です。
福島さんは小学校まで北海道で過ごしたあと、喜界島に渡ってきました。その後、鹿児島で高校を卒業し、1年間専門学校に通ったあと島に戻ってきました。
町の役場に入って今年で11年目。「若手は少ないんじゃないですか?」と聞いたところ、「結構若い人もいますよ」とのこと。
福島さんの仕事は「電算係」ですが、ホームページの更新、システムやネットワーク管理だけでなく、PCの指導、ユーザーサポートなどもこなしています。年配の方からは機械のことなら福島さんというイメージがついているらしく、「コピー機の調子をみてくれ」と言われることも。
町の人々からは「パソコンがネットに繫がらない」といった、都会では考えられない問い合わせもあるそうですが、それも役場が生活に密着して、頼られている証拠。役場の仕事にはやりがいを感じているそうです。
役場の仕事として喜界島の情報を発信している福島さんのお父さんも、ネットの世界ではちょっとした有名人。喜界島の不思議という蝶の情報サイトを運営しており、蝶に関心を持つ人々から注目されています。
最初は島の紹介をするだけだったサイトですが、「海を渡る蝶」アサギマダラ蝶に関心を持ち、日々アサギマダラの近況を発信しています。アサギマダラは長野県から台湾まで2000キロを移動して、喜界島にも立ち寄ります。喜界島はアサギマダラや金色のサナギになる「南の島の貴婦人」と呼ばれるオオゴマダラの生息する蝶の聖地。蝶ファンには見逃せない島なのです。福島さんのお父さんは、空港近くの小道を「中里 アサギマダラ ロード」と名付けて、観察を続けています。
この蝶を観察するために台湾からも人が訪れることはあるそうですが、「観光だけでは厳しいですね。海をアピールしても、いまさら他の島に勝てないです」。
喜界島の産業を聞いてみたところ、古くから農業に力を入れているそう。有名な島みかんの他、白ごまの生産地は日本で一番。その農業で成り立つ島にとって最も大事なのが水資源の確保。そのために巨大な「地下ダム」があると言う話に…
「地下ダム!」調査不足で島にあることを初めて聞いて、興味津々。さっそく福島さんに地下ダムの事務所に電話してもらい、取材を受けていただけることに。さすが地域の情報ハブ。役場のパワーを実感しながら、レンタカーを地下ダムに向かって走らせました。
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【僕らの島生活】喜界島編(5)ミカンのガラパゴスと島唄
ミカン類のガラパゴス、喜界島は別名そう呼ばれているのだそう。島ブロガーらとの宴も佳境に入り盛り上がってきたところで、長島さんが歌を披露してくれました。幻の「けらじみかん」を歌った、その名も「けらじみかんの歌」は、子供も歌えるリズムカルな曲。なんと奄美歌謡選手権で見事最優秀賞に輝いているのです。(ボクナリ 美谷広海)
YouTubeにアップされている「けらじみかんの歌」「ところで、けらじみかんって知っていますか?」。喜界島はミカン類に詳しい人にはガラバゴスと言われているとか。34種類の島みかんが存在し、江戸時代の品種が未だに残っていたりするそうです。
そんな喜界島のみかんの中でも最も、味が良く香りも素晴らしいのがけらじみかん。花良治(けらじ)という集落でしか採れないため、生産量も少なく幻と呼ばれ、太平洋からの潮風の影響や、水や土が生みだす、まだ皮が青いうちに食べる独特なみかんです。
「実はこのけらじみかんの歌をつくったんです」と長島さん。
東京にいた頃もボイストレーニングを欠かさず、島でバンド活動もしているという長島さんが歌を披露してくれました。かわいい振りつきで小学校に教えに行くこともあるそう。NHKに出てくる歌のお兄さんも顔負けです。(YouTubeで公開されている「けらじみかんの歌」)
「一年前くらい前にみんなであつまった時に花良治や喜界島を盛り上げるような何か、ないかな~と話していたのがキッカケでつくったみたんですよ」
長島さんは「打ち上がる」タイプだそう。仲間で話が盛り上がっていく中で勢いが付き、いつの間にか中心になって盛り上げるタイプ。そのおかげもあって、「けらじみかんの歌」は、今では地元の夏祭りや運動会でも使われるように。仲間の応援で見事に打ちあがったようです。
三味線を披露してくれた徳成りさんと長島さんその後、徳成寿さんこと徳さんが三味線を弾き、長島さんがそれにあわせて唄を披露してくれました。
素人には島唄はどれも同じに聞こえますが、島ごとに唄い方があるそう。現在ではリズムの速い奄美大島や徳之島の唄い方がコンテスト向きなこともあって主流になり、喜界島の唄い方はほとんどなくなってしまっているそうです。
だからこそ徳さんと長島さんは、喜界島の唄い方にこだわっているそう。「リズムが早い奄美大島に比べて、喜界島の唄い方はゆっくり。だからお年寄りでも唄えるんですよ」と教えてくれました。
「唄は元々神様のためのものだったんです。うまりかみ(島の神様である姉妹神)は男性を受け付けないため、占いは女性しかできないんです。だから、唄も高く、女性の声のように唄うんです」
華やかさはそれほど無いものの、波のような浮遊感のあるリズム。ずっと聴いていると自然と思わず居眠りしたくなるほどリラックスしてきます。
「島の人はみんな唄がうまいんですけれど、自分から唄おうとはしないんですよ」と照れくさそうに話す二人。島のことを自分たちの好きな音楽で伝え、その文化に興味を持って三味線や歌も勉強する。同世代からも見てもすごくカッコいい。
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【僕らの島生活】喜界島編(4)島の出会いは難しい
喜界島についてブログを書いている「自然の歌綴り」の長島さんと「けらじ屋ブログ」の宮本久美子さん、その仲間の方々と一緒に食事をしながら、島の暮らしや出会いについてお話をお伺いしました。若者に人気の居酒屋で出された料理はどれも美味しく頂きましたが、ヤギ汁だけはやっぱり無理でした…(ボクナリ 美谷広海)
お話を聞かせてもらったのは、1977(昭和52)年生まれの同級生。長島さん、宮本さん夫妻ら5人。長島さんは実家が工務店、宮本さんは実家が商店。長島さんと宮本夫妻は高校卒業後、東京へ。100名ほどの同級生は高校を卒業するとほとんどが島を出るそうです。
宮本さんの夫である一徹さんは、神奈川県内の自動車会社とその関連会社に約10年間勤務し、喜界島に帰ってきてからは二年半。
「最初は帰る気がなかったけれど、今は、断然こっちがいい。JALカードでマイルをためて島の外に遊びに行くのが楽しみです。ここに住みながら(東京に)遊びいくのが最高ですね」とすっかり島の暮らしを楽しんでいるようです。
一方、気になる出会いについて聞いてみると、結婚相手をみつけるのは大変とか。観光地ではないため移住してくる人も多くはありません。
東京で暮らしたことがある長島さんによると「東京で開かれる島出身者の同窓会で再会してつきあうという人も結構いますよ」。結婚相手は島の人同士であることが多く、高校でつきあって結婚にいたることも多いそうですが、昔からみんな知り合いなのでやりにくい面もあるようです。また、自衛隊の基地があるため自衛隊員と出会って結婚することもあるとか。
かなりマイルドな「ヤギ汁」も…舞台となった居酒屋Keiは、島の名産品を現代風にアレンジした味付けで出している人気のお店。
ヤギ肉のカルパッチョ、ナマコやヤコガイ(夜光貝)といった珍しい食材、ヤギの血で煮たからじょり(唐血料理がなまった言葉だとか)という料理、そして次の日まで匂いがとれないと言われる強烈な匂いで恐れられているヤギ汁。
ヤギ汁は島外の人も食べられるようにかなりマイルドな味付けにしてあるという事でしたが、やはりかなりの臭み。一口だけで飲んで、断念せざるを得えませんでした。カルパッチョはあっさりとしていて臭みもなく同じ肉だとは思えない味わい。こちらは美味しく頂くことができました。
ヤギ肉のカルパッチョ長島さんと宮本さんにブログを書いていて、どんな反応があるかをついてきいてみると、「島の人たちや、島に住んでいて都会に出た人からも反応が帰ってきますね」という答えが返ってきました。
「検索をかけるにも地元の地名をしっていないと検索できないですしね」
島の人たちはブログを書いていることをみな応援してくれるそうなのですが、方言についてブログで紹介すると島の人中から突っ込みが来るそうです。
「方言が島の北と南、地区でも全然違っていて、みんなが自分たちが正しいと思っているんです(笑)。そこがうむっさーよ。(面白いです)」。
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【僕らの島生活】喜界島編(3)ダビスタさながら畜産の世界
島一面にサトウキビ畑が広がる喜界島の主要産業は農業ですが、最近は牛を飼う人も増えているとのこと。良質な肉を持った高く売れる牛を育てるためには育て方もさることながら、親である種牛の情報も重要。どの血統を掛け合わせればいいのか、まるで「ダビスタ」さながらの試行錯誤の世界でした。(ボクナリ 美谷広海)
喜界島で畜産を営む米田さん「島に戻ってこないか」。畜産業を営む米田さん(37)が父親から連絡を受けたのは21歳の時。高校でバイオテクノロジー関連の勉強をした後、大阪で就職していましたが、近くの建設会社が畜産をやめることになり、それを引き取ったのです。
「あと5年くらいは島の外で」と思っていた米田さんでしたが結局戻ることに。
米田さんが小学校の頃、牛を飼っていたことがあり、仕事にはすぐに馴染むことができました。最初は父と兄の3人、家族で取り組みましたが、7年前に父が、兄も4年前になくなり、今はひとり。
牛は今年4頭増えて、親牛38頭、子牛5頭に。牛は大体1日1キロ増えていくそうで、生後9ヵ月、270日でおよそ270キロになります。オスで300キロ、メスで200キロになったら出荷です。
牛舎の壁に貼られた記録牛の価格を決定するのは肉質ですが、その参考になるのが親である種牛の情報。種牛によって値段が変わるため、どの種牛で授精させるか、どれだけ良質な種牛、雌牛を自分のところで育てていくことができるかが要となります。競馬の世界さながら血統がものをいう世界です。
米田さんの牛舎の壁の一面には、母牛、父、祖父、祖々父、種牛の情報が繁殖記録板にびっしりと書き込まれていました。競馬ゲームの「ダビスタ(ダービースタリオン)」に出てきそうな一覧表です。種牛の情報は、ネットで検索して価格を調べることができるようになっており、それを元に島の仲間と情報交換して、いい牛を育てる工夫をしています。
米田さんが育てる牛たち気に入った種牛があれば島に授精師さんがやってきて、冷凍精液で授精をします。授精にはお金がかかるため、なるべく良い種牛と雌牛を表で管理しながら手元に残します。苦労の甲斐あって、ようやく米山さんのところでも良い牛が育ってきたとか。「子供がウチの美味しい肉になれてしまって、他の肉は食べなくて」と苦笑。
毎日、牛の様子を見なければならず、家族旅行は妻と子供だけになりがち。牛は潮の満ち潮のとき出産するため、潮が満ちてくるときには牛舎を留守にすることができません。初めてひとりで牛を出産させた中学時代から20年以上たった今でも、分娩の時は緊張するそうです。
「子供が継ぎたいといってくれるので、将来は島で隠居生活するのが夢ですね」と笑って話してくれましたが、のんびりするのはもう少し先になりそうです。
![]() 「奄美カレー 甘口 180g」奄美大島で手間隙かけて土壌改良を行い、栽培した生ウコンを使った… |
【僕らの島生活】喜界島編(2)源平時代の面影が残る島
おどろおどろしい名前にも惹かれて訪れた喜界島でしたが、島をめぐった第一印象は「何もない普通の南の島」。それでもしばらく島にいると、どこか違和感があるのです。もしかしたら、日常の中に源平時代の面影が残っているからではないか。どこにでもあるような砂浜を見ながら、そんな思いが湧き上がってきました。(ボクナリ 美谷広海)
平家が上陸したとされる沖名泊車を借りて島を一周することに。今までに訪れた三重県答志島、北海道天売島に比べると典型的な南の島のように見えました。道路に植えられたソテツや鮮やかな草木、歩いている人のラフな服装からは南の島であることは伝わりますが、そこにしかないモノというのが中々感じられません。
全国的にそれほど有名ではない島を訪ね、そこにある日常の風景を切り取ろうとして旅をしているのですから、ある意味それは当然のことなのですが…
まずは、島の西側を北上して、壇ノ浦の合戦に破れた200余名の平家の残党が上陸したと伝えられる浜に向かいました。観光客か地元の人か見分けのつかない人がひとりでスクーターに乗って浜に来ている他、石碑以外に特別なものは何もありません。
砂浜から突き出た小さな防波堤の先端にまで歩いていってみます。南国であればどこにでもありそうな浜。石碑がなければ通り過ぎてしまいそうです。
百之台公園からの眺望夕方、サンゴ礁が隆起し、島で一番高い標高203メートルの高台、百之台公園へ。
百之台公園へ至る道は、不自然なほどに綺麗に整備されていました。道路際の見事に刈られた芝生、等間隔に植えられたシュロの木の街路も仰々しく見えてしまいます。周りの風景から浮いた人工的に整えられた風景。これも違和感の原因かもしれません。
公園は展望台になっていますが、目の前に広がる太平洋のパノラマも、眼下に点在する畑や集落も、曇り空だからかパッとしません。この島に足を伸ばす人はそう多くはないかも、と思ってしまいます。
翌日。曇りがちだった空がカラっと晴れ、島が全く違った表情を見せ始めました。レンタカーで走っているだけでも、前日には気付かなかったものに気付きます。
空港にもあった不思議な大きな屋根、これは相撲の土俵でどの集落にも必ずあることに気付きます。祭りのときには必ず相撲大会が行われ、島出身の力士も現在二人いるそうです。サンゴの垣根も残っています。石垣が数多く残る阿伝地区に立ち寄ると、古代の遺跡のようにひっそりとしていました。
たまたまなのか、集落の中を歩いている人はまばらで、青々と茂った樹木が逆にその静けさを一層と引き立てていました。この静寂に身を置いていると、ふと「この島には源平時代の影響がいまだに残っているのではないか」そんな考えが頭をよぎりました。
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【僕らの島生活】喜界島編(1)きかいという言葉に惹かれて
日本一少ない16マイルの航路で奄美大島と結ばれている鹿児島県喜界(きかい)島。鬼界であったのではないかという説もあるこの島には、いわくつきのエピソードが残っています。飛び立ったと思ったら、すぐに着陸する短い空の旅を終えると、まるでレゴブロックで作ったような小さな空港ターミナルが出迎えてくれます。(ボクナリ 美谷広海)
俊寛の像奄美群島のひとつ鹿児島県喜界島。奄美大島から東へ25キロと近い島ながら空港が存在します。鹿児島から沖縄へ、まるでひとつの線で結ばれるように点々と並んでいる島々の中でひとつだけ東側に離れて海に浮かぶこの南の島が気になり訪れてみることにしました。
それ以上にひっかかったのが、「きかいじま」という名前。
島に墓がある平安時代の僧侶俊寛は、平家打倒を企てたとして流された上、赦されず島に一人とり残され、絶望してしまいます。他にも、壇ノ浦の戦いに敗れた平資盛が島に上陸したり、幕末の薩摩藩士で西郷隆盛とともに西南戦争で死亡した村田新八も流されていたことがあります。
また、美しさから村人の嫉妬を買い、海に突き落とされたムチャカナという娘がいたという悲しい「ムチャ加那伝説」も残されています。
このようなエピソードを読んでいると、ミステリーハンターさながら、どんな島なのか地図から目が離せなくなり、訪れてみることにしました。
人口は8000人。フェリーの到着は早朝や深夜が多く、鹿児島からはフェリーで11時間と長旅となりますが、飛行機なら1時間ちょっと。隣接する奄美大島から喜界島までは10分たらずで到着します。
日本エアコミューターのサーブ340B羽田空港を立ち、奄美大島空港を経由して喜界へ。小雨が降る中、駐機スペースに到着した飛行機に歩いて向かいます。定員36名、JACのサーブ340Bという小さな機体にタラップを登って乗り込みました。
乗員は半分たらず。乗っている人のほとんどが地元の人のようで、観光客らしき人はほとんど乗っていません。これまでの離島では見かけなかったスーツ姿の男性が目をひきます。これから訪れる島がどのような特徴を持っているのかが少しずつ伝わってきます。
奄美空港から飛び立ち数分で、キャビンアテンダントから「当機はまもなく着陸いたします。座席の背、化粧室のご利用は…」と聞きなれた着陸のアナウンスが流れます。シートベルトを外す暇もなく、あっという間なので、隣に座ったおじさんが「誰が化粧室なんて行くんだ?」と突っ込みを入れるほどです。
駐在所のような小さな空港ターミナル空港ターミナルの建物もとてもこぢんまりとしています。ビルというよりも駐在所のような大きさ。
チェックインカウンター、ロビー、手荷物の受け渡しと検査場が全て一緒にあり、数歩でターミナルから外に出てしまいます。荷物の受け渡しは、フォークリフトで運ばれてきた荷物を職員が窓から運び込みカウンター上に置いていくだけでした。
![]() 【Gemini Jets】サーブ340 U.S.エアウェイズ・エクスプレス(コルガンエア) N338CJ 1/400 2011… |
【僕らの島生活】天売・焼尻編(6)離島のカフェは人生交差点
「お昼ご飯ならココに行くといいよ」。旅館の主人から勧められたガイドブックに載っていないカフェ。札幌出身で、東京や横浜で仕事をして、焼尻にたどり着いた女主人が一人でやっている。カレーを食べ、コーヒーを飲む。この短い間に、島に赴任した新任教師、軽自動車で旅をするカップルらさまざまな人が訪れ、女主人と話をしていく。離島のカフェで人の生き様が交差していた。(ボクナリ 藤代裕之)
「支所前の交差点を右に曲がったら窓のところにOPENて書いてあるから。民家にしか見えないから通り過ぎないように」
宿泊した旅館「礒野屋」の主人にオススメの昼食の場所を聞くと、そのカフェを教えてくれた。
レンタル自転車で向かう。入り口には飾りなのか、ただ動かなくなったのか、廃車のようなスバルの軽が止まっていた。
扉を開けると既にお客がいて、3つあるテーブルが埋まっていた。白に青のストライプのジャケットにジーンズの青年と合い席となる。年齢は二十代ぐらい。渡辺淳一が書いた脳の本を読んでいた。
本棚にたくさんの本が並んでいる。レイチェルカーソン「沈黙の春」、横山秀夫「震度ゼロ」、インテリアやデザインの本、そして「グーグル革命の衝撃」。ラジオを鳴らすのは、トリオのパワーアンプ、スピーカーはヤマハとBOSE。オーディオの周辺は古時計、ランプといった小物で埋められている。
メニューはカレーとスパゲティ、飲み物が少々。僕らはカレーを注文した。
青年がスパゲティを食べ終え、ラッキーストライクに手を伸ばしたのをきっかけに話しかけてみる。小学校の教諭で、島外から赴任しているという。
「島の子供たちは素直でいいですよ」。焼尻島の小学校の生徒は全体で7名。ちょっとした家族みたいな感覚なのかもしれない。
注文したカレーが来て。青年教諭がスバルに乗って帰っていった。「あれ廃車じゃなかったんだ?」と驚くと、女主人が引き取った。「そうなの、前の先生から3万円で買ったらしいわ。ひどいわね。近江商人なのよ」。
近江商人と言えば三方良し(買い手良し、世間良し、売り手良し)が知られているが、どう見ても一方しか得をしていない気がする…
本について尋ねると、「ご主人の趣味ですか?って良く聞れるんだけれど、私ひとりだから私の趣味ね」。そこから女主人の身の上話が始まった。
札幌出身、東京や横浜でフリーで建築やデザイン関係の仕事をしていた。最近は、札幌で働いていたが退屈になって、もっと退屈な場所を求めて三年半前に縁もゆかりもない焼尻に越してきたという。
「交通の便が不便で、コンビニがある島なんて最悪ね。そう考えると北海道には天売と焼尻しかないのよ。中途半端が一番ダメだから」
いまは見違えるようなカフェだが、最初に紹介されたときは朽ち果てていた家は礒野屋の主人が紹介してくれたという。「ほら、床も屋根も抜けてたからさ。あきらめると思ったらしいわ。島は人が出て行く一方だから皆大事にしてくれるわよ」と笑った。
福岡ナンバーの軽自動車が止まった。二十代真ん中ぐらいのカップルに「すばらしい景色だったでしょう?」と女主人が話しかけている。会話を聞いていると、どうやら軽自動車で島をめぐっているらしい。もうすぐ札幌に福岡に帰るようだった。カップルの来訪を機に僕らは席を立った。今度焼尻を訪れたとき、女主人はまだここでカフェを開いているのだろうか。
【僕らの島生活】天売・焼尻編(5)ニシンの思い出に生きる島
天売島を後にして焼尻島を。地図で見ると双子のように似ている両島ですが、焼尻は原生林と畜産の島。岩の切り立つ野鳥の島天売とは違った表情がありました。ニシン漁で賑わった最盛期には3000人近かった島の人口も今は10/1以下。離島ブームも去り、港を見下ろす立派な資料館はひっそりとしていました。(ボクナリ 美谷広海)
のんびり草を食べるめん羊島の3分の1の面積を占める森。ミズナラ、ナナカマドなど50種類15万本がうっそうと茂るこの森は国の天然記念物に指定されています。「オンコの壮」には、イチイの木の原生林5万本が低く枝を広げていました。
深い森を抜けると、青々とした牧場が広がります。所々には放牧されているめん羊が見えます。羊の肉はフランス料理の高級食材として出荷されています。
海から吹き付ける風を受けながら、島の中央を真っすぐに横切る「オンコ海道」を自転車で疾走していきます。360度周りが牧場に囲まれている風景は自分が小さな離島にいることを忘れてしまいそうになります。
海道の終点、高台になっている「鷹の巣園地」に到着すると、ヘルメットをかぶったお年寄りが話しかけてきました。「今年は寒いんだよ。これも地球温暖化ってやつの影響かな」「焼尻には秋田の人が多いんだよ。羽幌は加賀藩、金沢の人。みんなニシン目当てさ。島の周りの海が産卵で泡みたいになってね。ニシンさえとってりゃ食べられた」。昔語りを終えたお年寄りは草刈の作業に戻っていきました。
霧の中に浮かぶ天売島展望台からは焼尻島が見下ろせ、振り返ると霧の中に天売島が浮かんで見えます。
高の巣団地から島の南岸を走っていくと道の脇にトーテムポ−ルが立っています。実はここ、日本初の英語教師となったアメリカの捕鯨船の船員マクドナルドが漂着した場所。その面影を感じさせるものは何もなく、黄色の花びらを持つユリ科のエゾカンゾウが咲き乱れていました。
東岸にある集落では、空き家となっている家屋が目立ちます。明るい日差しと豊な緑の中にある廃屋の姿はガイドブックにはでてこない生活の跡の姿です。
島を離れる前に、集落の中央にある1900(明治33)年に建てられた焼尻郷土館を訪れました。かつてのこの島で漁業や雑貨商を営んでいた旧家・小納家の建物がそのまま使われています。立派な屋敷には当時はかなり珍しかったと思われる、レコードのコレクションやゴルフクラブなどが飾られていて、往年の繁栄を偲ぶことができます。
まだ帰りのフェリーまで少し時間があったこともあり、受け付けおばさんとのおしゃべりが始まりました。
焼尻郷土館から港を見る以前は旅館で住み込みで働いていたとのこと。昭和40年代は離島ブームで大勢のお客さんが天売島、焼尻島を訪れ、天売島に泊まりきれない人が焼尻島に泊まってそうです。ブームが去り、かつて15件ほどあった旅館も今は4軒に。郷土館も10年以上前は年間6000人ぐらい来ていたお客さんが、今では1600人程という寂しさです。
そして、ここでもニシンの話になりました。「たくさんのニシンが捕れたんだけれど、ある時ピタッととれなくなったんだよ。7、8年前にも一度だけ大量にとれたときがあるんだけどね。その時は海の色が変わったんだよ」と話してくれました。島の人々の頭には、海が泡立つニシンの思い出が生きているのでしょう。
![]() 北海道の本場の味 にしん 一夜干しふっくらとしてジューシーな身が絶品です熟練の技で旨味を凝… |